2011年2月11日金曜日

彫刻家の娘

トーベ・ヤンソン 冨原眞弓訳/講談社
自分はとにかく臆病な子どもだったとおもう。おばけはもちろん怖かった。家がなくなることとか、親がいなくなることとか、病気とか貧乏、地震や強盗におびえて、それら想像しては眠れなくなっていた。
いまだって怖くないわけじゃない。それどころかニュースを観たりするようになってから、前にもまして世界は怖いことだらけだ。ちがうのはただ、恐ろしいものに蓋をするすべをおぼえただけだ。
あのころの恐怖は常に、まざまざとおもいだすことができる。

だから「ムーミン谷の彗星」を読んだとき、トーベさんもまた、自分の想像で眠れない夜をすごしたひとなんだとおもったのだ。だって、彗星が落ちる瞬間のあの焦燥感ときたら!それに冬眠から覚めたムーミントロールの、あの息が詰まりそうな孤独感といったら!
けれどもトーベさんはまた、恐ろしい出来事にともなうスリルが、ひとをやみつきにさせることも知っていた。それは、嵐がきて大喜びで外にでていく両親に育てられたおかげなのだろう。
最良の親であるのかはわからないけれども、雪に閉ざされた家で「世界にわたしたちだけしかいなくなったらどうする?」というはなしを、真剣にできる親なのだから最高だとおもう。
どこかにいるべき場所があって、語り合うことができるひとがいるならば、どんな怖い目にあってもそれを冒険として楽しむことができることを、トーベさんは体感していたのではないか。
もちろんそれは、冒険を支える日常があることが前提だけれども。

臆病であった自分は、ずいぶん冒険するチャンスを無駄にしていたとおもう。もっと、無茶することだってできたはずなのに。
もういちど、ちっちゃい頃からやりなおすなら、こんどは怖いことも楽しめるひとになりたい。
そうおもう。

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